2008年12月14日日曜日

茂吉の歌



斎藤茂吉全歌集 筑摩書房 1968年

「赤光」(明治38年〜大正2年)

罌粟はたの向うに湖の光りたる信濃のくにに目ざめけるかも

死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子も生れしか

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

あま霧し雪降る見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり

さにはべの百日紅のほそり木に雪のうれひのしらじらと降る

かぎろひの夕なぎ海に小舟入れ西方のひとはゆきにけるはも

みちのくの我家の里に黒き蚕が二たびねぶり目ざめけらしも

ぬばたものさ夜の小床にねむりたるこの現身はいとほしきかな

しづかなる女おもひてねむりたるこの現身はいとほしきかな

あかときの草の露玉七いろにかがやきわたり蜻蛉うまれぬ

はるさめは天の乳かも落葉松の玉芽あまねくふくらみにけり

竹おほき山べの村の冬しづみ雪降らなくに寒に入りけり

かへりみる谷の紅葉の明らけく天にひびかふ山がはの鳴り

山川のたぎちのどよみ耳底にかそけくなりて峰を越えつも

やはらかに濡れゆく森のゆきずりに生の命の吾をこそ思へ

白雲は湧きたつらむか我ひとり行かむと思ふ山のはざまに

ながらふる日光のなか一いろに我のいのちのめぐるなりけり


「あらたま」(大正2年〜大正6年)

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも

いささかの為事を終へてこころよし夕餉の蕎麦をあつらへにけり

やまみづのたぎつ峡間に光さし大き石ただにむらがり居れり

山路をのぼりつめつつむかうにはしろがねの色に湖ひかりたり

山あざみの花をあはれみ丘貫きて水おち激つほとりにぞ来し

さびしさに我のこもりし山川をあつみ清けみまたかへりみむ


「ともしび」(大正14年〜昭和3年)

人恋ひて来しとおもふなあかねさす真日くれてより山がはのおと

おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿にしづみぬ

山のうへに光あまねく月照りて真木の木立にきほひ啼く鳥

壁に来て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ

さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ


「小園」「白き山」(昭和18年〜昭和22年)

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

最上川の上空にしてのこれるはいまだうつくしき虹の断片

おしなべて人は知らじな衰ふるわれにせまりて啼くほとどぎす

あたらしき時代に老いて生きむとす山に落ちたる栗の如くに

コメント
茂吉は「短歌声調論」や「万葉短歌声調論」で万葉調は順直でわかりよいとする。藤原定家は屈折が多く、くだくだしく抽象的なところがあり読んでもぴんとこない、村田春海は、てにをはや作用言が多過ぎごたごたしており調がくだけて弛緩してしまっていると評している。

声調が心地よく、わかりやすく、共感できるものという観点から茂吉の歌を選んだ。茂吉自身が批判していた、くだくだしく、ごたごたした感じの歌もなくはない。まして現代歌人をや。



写真提供はフォト蔵さん

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