2009年10月30日金曜日

十三夜




天井の鼠さわがし十三夜
     
突つ掛けで酒買ひに出る十三夜
   
  劇団四季のオペラ座の怪人を観て

名残月オペラのあとの回り道
    
  江戸川べりから市川の里見公園を望む

鉄橋を列車奏でる十三夜    
      
後の月街はほのかにさんざめき
    
ひとゝせの巡る早さよ十三夜
    
うつろひは身もとどめえず名残月  



写真提供はフォト蔵さん

2009年10月21日水曜日

椎の実



   椎の実や脳幹深くある記憶


隣の区の公園に椎の実を採りに行った。まてば椎はトラックの回りにずらっとある。今やこの実が食べられること知っている人は少ないのかもしれない。普通の椎の実は隣接の神社でゲット。今年は大きな実がたくさん落ちていた。洗って木鉢に入れて見た。なんともリッチな気分(^^) 昭和というより原始時代の記憶が蘇るような気分がする。これは焚火などでも感じる気分だ。

二種類の椎の実と酒と菊膾、そして最近はまっている俳諧書。親戚からいただいた民芸調の火鉢のテーブルに並べて、はいチーズ! お銚子と猪口は幻の飯能焼。

2009年10月19日月曜日

秋薔薇(あきそうび)



小岩の善養寺 影向(ようごう)の松

  老松のふところ広し菊花展


柴又の蕎麦屋 上総家

  新蕎麦と聞けば苦にせぬ待ち時間


市川の里見公園
 
  秋薔薇読書のをんな脚を組む




写真提供はフォト蔵さん

2009年10月17日土曜日

芭蕉の「軽み」の付け方

   
   いまだ軽みに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句  
             (元禄七年八月九日の去来宛芭蕉書簡)

序:
富山奏氏(1)は従来の芭蕉の軽み論は、軽みについて具体的に語っている幾人かの門人の言説に頼ってきたが、芭蕉は門人のレベルに応じて方便を使い教えを垂れるので門人の言説をいくら集め総合したところで芭蕉の真意には迫れないとする。

またほとんどの論客は軽みを発句中心に論じて来たが、よくよく芭蕉の言説を調べると、軽みについてはほとんどが連句の付けに対して述べており驚きさえ覚えるとし重大な片手落ちだったとする。この二つを氏は反省点として芭蕉の言説に依拠し連句による論を展開する。

本論:
元禄七年八月九日の去来宛芭蕉書簡には「いまだかるみに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句」とある。富山奏氏はこの芭蕉の言を、元禄七年七月二十八日、猿雖亭夜席で巻かれた歌仙『あれあれて』を主に念頭においていると推論する。

この歌仙を巻いたときの芭蕉の真筆草稿が存在し、そこには芭蕉が伊賀連衆の句を添削した跡が載っている。添削部分のみ示し詳細な説明は省略。なぜそう添削されたかは、下の芭蕉の「軽み」の付け方に要約されている。

    歌仙『あれ/\て』
    
       元禄七七月廿八日夜猿雖亭

  あれ/\て末は海行野分哉  猿雖
   鶴の頭を上る粟の穂    芭蕉
   。。。
ウ                     (芭蕉の添削後)
   崩れかゝりて軒の蜂の巣  卓袋
  花盛真柴をはこぶ花筵    土芳  焼さして柴取に行庭の花
   柳につなぐ馬の片口    木白   こへかきまわす春の風筋

二ウ
   行儀のわるき内の六尺   望翠   行儀のわるき雇ひ六尺
  花盛湯の呑度をこらへかね  配刀  大ぶりな蛸引あぐる花の陰
   戸を押明けてはいる朧夜  木白   米の調子のたるむ二月


■芭蕉の「軽み」の付け方:
【要約すると次の如くなる。先ず桜に柳と言ったような固定した型にはまった言葉付けや、或は意味付けにしても、「行儀のわるき雇ひ六尺」に「花盛湯の呑度をこらへかね」と言った全く同じ内容を繰り返した停滞した付け方や、「大ぶりな蛸引あぐる花の陰」に「戸を押明けてはいる朧夜」と言った同一人の動作を続けて説明したような飛躍の無い付け方を否定するものである。

しかも、「崩れかゝりて軒の蜂の巣」に「花盛真柴をはこぶ花筵」と言ったような前句の中の一部分の意味のみに応じて、他を捨て去るような付け方は、如何に句境を転じ飛躍させる為であっても容認しないのである。

即ち、前句の意味や気分を逃すことなく、あくまでも尊重しつつ、然も軽やかに句境を進転させて行くのが「軽み」の付け方なのである。そして、その為には、当然一句そのものの調子も、あくまで軽やかで、前句から受けついだ調子の流れを塞き止めるような句を作ってはならない。

自分の句のみに力みすぎて下手に趣向を凝らす時、丁度糸の途中に結び目が出来た様に、そんな句が出来るものである。さりとて、平板安易で何の曲も無い句では話にならないのである。此処が「軽み」に言うべくして行い難き点であろう。】

■芭蕉の「軽み」の発句:
【ところで、発句に於ける「軽み」も、本質に於てはこれと同じ精神である。下手に趣向を凝らすと句がもたつくし、平板安易一方では何の曲も無い駄作となってしまうのである。

従来「軽み」が平易通俗な句体であるとか、濃艶・繊巧の美を排するものであるとか、或はまた、景気とあらびを尊重して情辞のねばりを排し、通俗卑近性や現実性を重んじて古典性を拒否するなどと言われるのも、皆此の精神の発現する種々相に触れたものである。

芭蕉自身が「手帳にあぐみ」(杉風宛書簡)と言って、わざとらしい趣向に依る拵え物の句を排しているのも、同じ精神の現れた一つの場合である。ー以下略ー 】

感想:
本論で富山奏氏が指摘する<芭蕉の軽みの付け方>は、我々現代の連句人も守るべき基本的なものであろう。これを読んで耳が痛いとか何も感じないなら、<いまだ軽みに移り兼ねしぶ/\の俳諧散々の句>ということであろう。

大学の卒論が『芭蕉の軽み』で、それ以来研究し続けているという富山奏氏は、新版近世文学研究事典では「芭蕉が発句の詠出法として強調した「かるみ」とは本意として内に深遠な伝統的風雅心を宿しながらも、その表現は素朴に、さりげなく眼前の実景描写のように行う手法であった」としている。これは一般向けでそれはそれで発句中心の穏当な定義であろう。

芭蕉は他の作法についてと同様にきちんと理論的で実例的な軽み論を文書として残さなかった。軽みにおいては門人の誤解と脱落離反という憂き目に会った。後世の芭蕉学者も当時の門人同様、ああでもないこうでもないと終わることのない論争に巻き込まれている。芭蕉が秘すればこそ論が百花撩乱と花開くというところであろうか。

参考文献:
(1)富山奏『異端の俳諧師 芭蕉の藝境』、和泉書院、1991年
(第一章 芭蕉晩年の「軽み」の藝境 第一節 元禄七年の芭蕉の藝境 ー特に従来の「かるみ」の解釈への反省としてー)

2009年10月16日金曜日

談林時代の芭蕉

談林時代の芭蕉

「談林の俳人で、談林風の俳諧に於て、且つ連吟に於ても、西山宗因に匹敵するほどの
軽妙洒脱な作風を示し得た者は、西鶴でもなく、高政でもなく、江戸の松意でもなくて、
実に芭蕉であったのである。

此の事はあまり人々の言はない所であり、蕉風以後の芭蕉の光に圧倒された為か、談林
時代の芭蕉にあまり着目する人もないのであるが、彼の延宝時代の作品、例へば素堂と
両吟の江戸両吟集、素堂信徳と江戸三吟などは、如何なる談林俳人も傍へ寄り附き得ぬ
ほどの巧妙さを示して居るのである。かやうに談林俳人としても傑出した才能を持って
居たればこそ、蕉風開眼といふやうな、大事業を成し得たものだと私は考えてゐる。」(1)

  臍の緒の吉原がよひきれはてて   桃青
    かみなりの太鼓うらめしの中  信章
  地にあらば石臼などと誓ひてし   桃青
    末の松山茎漬の水       信章
  千賀の浦しほがま据て庭の隅    桃青
    雪隠さびて見え渡るかな    信章  (江戸両吟集 其の一)

「偉大な人間は、大衆の好みに合ふやうに伝説化され、その裏の人間性や生活などを歪
められて語られてゐることが多いものである。ことに国民的な存在、大衆に最も親しま
れてゐるやうな人間になると、それがはなはだしいやうである。芭蕉もその例にもれな
い。しかし、それが却って彼の作品ならびに人間の真の価値の認識を誤らしめてゐる。
そこで、彼の生活を、いままでの通説をはなれて、できるだけありのままに見なほし、
芭蕉の作品の偉大さは、さうした彼の芸術的生活そのものを通して創り出されたもので
あることを明らかにしたいと思ふ。」(2)

  あら何共なやきのふは過て河豚汁  桃青
    寒さしさつて足の先迄     信章
  居あひぬき霰の玉やみだすらん   信徳
    拙者名字は風の篠原       青
  相應の御用もあらば池のほとり    章
    海老ざこまじりに折節は鮒    徳
  醤油の後は湯水に月すみて      青
    ふけてしば/\小便の露     章  (江戸三吟 其の一)

「延宝年間、談林時代に於ける芭蕉の生活は、有望、有力にして積極的なる談林派俳諧
師としての在り方をつらぬいたものであって、さういふ市井の、町人の俳諧師としての
生活を通じてこそ、あの生気溌剌、多彩豪華、奔放絢爛たる作品を多く作り出し得たの
であった。その作品と生活は表裏をなして居ったのであって、不可分のものであったの
である。決して貧僧を思はせるやうな、寒厳枯木の如き、孤独隠遁の生活を送ったもの
ではなかったのである。」(2)

    杓子はこけて足がひょろつく  桃青
  やゝ暫し下女と下女とのたゝかひに 信章
    赤前垂の旗をなびかす     信徳
  酒桶に引導の一句しめされて    桃青
    つらつらおもんみれば人は穴蔵 信章
  うらがへす畳破れて夢もなし    信徳
    蚤に喰はれて来ぬ夜数かく   桃青
  君々々爪の先程思はぬか      信章
    しのぶることのまくる點とり  信徳
  戀よはし内親王の御言葉      桃青
    乳母さへあらば黒がねの楯   信章  (江戸三吟 其の三)
    
■引用文献
(1)『 連句藝術の性格』能勢朝次
(2)『芭蕉の生活 ー談林派時代に於けるー』廣田二郎

2009年10月14日水曜日

宗因の軽み

    宗因独吟百韻「口まねや」
                 延宝四年以前春

  1   口まねや老の鶯ひとり言      
  2     夜起さひしき明ほのゝ春
  3   ほの霞む枕の瓦灯かきたてゝ
  4     きせるにたはこ次の間の隅
  5   気をのはし膝をも伸す詰奉公
  6     お鞠過ての汗いるゝくれ
  7   月影も湯殿の外になかれ出 
  8     ちりつもりてや露のかろ石
ウ 9   秋風に毛を吹疵のなめし皮    
 10     いはへて過る馬具の麁相さ
 11   長刀もさひたる武士の出立に
 12     どの在所よりねるやねり衆
 13   蕨の根くだけてぞおもふ餅ならし 
 14     過がてにする西坂の春   
 15   有明のおぼろ/\の佐夜の山
 16     無間の鐘に花やちるらん    
 17   あたし世とおもひこそすれ出来分限
 18     いくらも立てする堂供養
 19   鎌倉や南の岸のかたはらに
 20     風によるをは海松よあらめよ
 21   帆かけ船はしり痔やみは押留て
 22     苫やの陰に侘た雪隠
二23   さすらふる我身にし有はすきの道
 24     忍ひあかしのおかたのかたへ
 25   織布のちぢみ髪にもみだれそめ
 26     あかり窓より手をもしめつゝ
 27   此人の此病をはみまはれて
 28     有馬の状は書つくしてよ 
 29   うちとけぬ王子の心ゑぞしらぬ
 30     伯父甥とても油断なさるな
 31   帰るさの道にかけ置狐わな
 32     古き内裏のつゐひちの下
 33   人しれす我行かたに番の者
 34     誰におもひをつくぼうさすまた
 35   歌舞伎する月の鼠戸さしのぞき
 36     立市町は長き夜すから
ウ37   引出るうしの時より肌寒み
 38     いのる貴布祢の川風くつさめ
 39   うき涙袖に玉散胡椒の粉
 40     やれ追剥といふもいはれす
 41   軍みてこしらゆる間に矢の使
 42     舟に扇をもつてひらいた
 43   花にふくこちへまかせとすくひ網
 44     霞の衣尻からけして
 45   春の月山の端にけてとちへやら
 46     かりの行衛も先丹波越
 47   借銭の数はたらでそつばめ算
 48     問屋の軒のわらや出すらん
 49   はすは女か濁りにしまぬ心せよ
 50     何かは露をお玉こかるゝ
三51   おもふをは鬼一口に冷しや
 52     地獄の月はくらき道にそ
 53   此山の一寸さきは谷ふかみ
 54     滝をのぞめば五分のたましい
 55   晩かたに思ひかみたれて飛螢
 56     天か下地はすきものゝわさ
 57   大君の御意はをもしと打なげき
 58     釆女の土器つゝけ三盃
 59   さそひ出水の月みる猿沢に
 60     おもひやらるゝ明州の秋
 61   牛飼のかいなくいきて露涙
 62     いつか乗へき塞翁が馬
 63   御旦那にざうり取より仕来て
 64     菜つみ水汲薪わる寺
ウ65   児達を申入ては風呂あかり
 66     櫛箱もてこひ伽羅箱もてこひ
 67   芦の屋の灘へ遊ひに都衆
 68     ひとつ塩干やむはら住吉
 69   蛤もふんては惜む花の浪
 70     さつとかざしの篭の山吹
 71   乗物に暮春の風や送るらん
 72     里(女扁)子のかへる里はるかなれ
 73   さげさせて人目堤を跡先に
 74     占の御用や月に恥らん
 75   夕露のふるきかづきを引そはめ
 76     雲井の節会高きいやしき
 77   おふな/\おもんするなる年の賀に
 78     物の師匠となるはかしこき
名79   行は三人の道ことにして
 80     死罪流罪に又は閉門
 81   いさかひは扱ひすとも心あれな
 82     女夫の人の身をおもふかな
 83   そたてぬる中にかはゆき真の子
 84     うくひすもりとなるほとゝきす
 85   春雨の布留の杉枝伐すかし
 86     うへけん時のさくら最中
 87   むかし誰かゝる栄耀の下屋敷
 88     川原の隠居焼塩もなし
 89   月にしも穂蓼計の精進事
 90     松茸さそよこなたへ/\
 91   北山や秋の遊びの御供して
 92     見せ申つる名所旧跡
ウ93   京のほり旅の日記をかくのごと
 94     いく駄賃をかまかなひのもの
 95   大名の跡にさがつて一日路
 96     よはりもてゆく此肴町
 97   見わたせは花の錦の棚さひて
 98     藤咲戸口くれてかけかね
 99   おとかひもいたむる春の物思ひ
100     かむ事かたき魚鳥のほね

出典:西山宗因全集 第三巻 俳諧篇、尾形仂・島津忠夫監修、八木書店、2004年

2009年10月13日火曜日

談林の軽み

芭蕉の軽みは談林の軽みの焼き直しにすぎない。角川春樹氏の以下の洞察に共感する。我が意を得たり。

『私は談林派俳諧から出発し、境涯句を志した芭蕉が、談林俳諧に存在した頭ずの高い「風刺」の精神をも否定してしまったことを残念に思う。芭蕉晩年に到達した「軽み」の思想は、後世誰もが疑うことなく芭蕉独自の世界と解釈しているが、芭蕉が提唱した「挨拶」と「滑稽」とは一体なんだったのであろう。西山宗因を中心とする談林派は、軽妙な口語使用と滑稽な着想によって流行した。芭蕉の軽みの代表句とされる次の一句、

 むめがかにのつと日のでる山路かな

は、一体どうなるのだ。この句の本質は軽妙な口語を使用した滑稽句ではないのか?「軽み」とは、形を代えた談林派の思想ではないのか? 芭蕉学者は、私の素朴な疑問に真摯に答えていただきたい。

柄井(からい)川柳が選句した「川柳」は、多くの口語を用いて、人生の滑稽、機知、風刺に視点を当てたが、芭蕉が談林派から切り捨てた財産の一部を継承したのではないのか? さらに正岡子規は、芭蕉の発句(ほっく)の大事な「滑稽」さえも、「俳句革新」の名の下に切り捨ててしまったのではないのか?』 (角川春樹)

魂の一行詩

参考:
宗因と芭蕉の同座が知られる唯一?の百韻。後に芭蕉は「宗因なくんば、我々が誹諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道中興開山なり」(去来抄)と述べている。

   延宝三年 「いと涼しき」百韻

1  いと涼しき大徳也けり法の水     宗因  夏
2    のきば軒を宗と因む蓮池     従画  夏
3  反橋のけしきに扇ひらき来て     幽山  夏
4    石壇よりも夕日こぼるゝ     桃青   (芭蕉)
5  領境松に残して一時雨        信章  冬(素堂)
6    雲路をわけし跡の山公事     木也
7  或は曰く月は海から出るとも     吟市  秋月
8    よみくせいかに渡るかり鴈がね  少才  秋
9  四季もはや漸々早田刈ほして     似春  秋
10   あの間此間に秋風ぞふく      筆  秋
11 夕暮は袖引次第局がた         画  恋
12   座頭もまよふ恋路なるらし     因  恋
13 そびえたりおもひ積て加茂の山     青  恋
14   室のとまりの其遊びもの      山  恋
15 革枕おきつ汐風立わかれ        也  恋夏
16   一生はたゞ萍におなじ       章  夏
17 わびぬればとなん言しもきのふ今日   才
18   それ初秋の金のなし口       市  秋
19 十年を爰に勤て袖の露         因  秋
20   おほん賀あふぐ山のはの月     春  秋月
21 春は花もみぢの頃は西の丸       山  秋
22   参内過て既に在江戸        画

23 時を得たり法印法橋其外も       章
24   親筆なれどあたひいくばく     青
25 哥のこと世上に眼高うして       春
26   明石の浦は蟹もしる覧       因
27 蛸にも其入道の名は有ぞかし      画
28   八日/\は見えし堂守       也
29 今もかも例をたがへぬ仏生会      市  夏
30   夏花やつゝじ咲匂ふらん      春  夏
31 あの山の風をもがなと窓明て      才
32   月の前なる雲無心なり       山  秋月
33 露時雨ふる借銭の其上に        因  秋
34   見し太夫さま色替ぬ松       市  秋
35 空起請烟となるも理りや        山  恋
36   夜討むなしき野辺の夕暮      因
37 あてのみの酒気を風や盗むらん     春
38   雨一とおり願ふ川ごし       吟
39 名号の本尊をかけよ鳥の声       也
40   それ西方に別路の雲        章
41 口舌事手をさら/\とおしもんで    市  恋
42   しら紙ひたす涙也けり       青  恋
43 高面をのぞく障子の穴床し       才
44   ゆびのさきなる中川のやど宿    因
45 蒔絵さへ寺町物と成にけり       山
46   数寄は茶湯に化野の露       春  秋
47 石灯籠月常住の影見えて        青  秋月
48   雪隠につゞく築山の色       画  秋
49 ますき垣南山并に花の枝        因  春花
50   うり家淋し春の黄昏        市  春

51 欠落の跡は露の立替り         春  春
52   雪崩れする其岩のはな       山  春
53 松明の煙につゞく白湯かた       章
54   果しあふよに出あへや出あへ    因
55 声高のみなもと聞ば衆道也       画  恋
56   よりて芝居の垣間見をせん     市  恋
57 おもほえず古巾着の銭をさぐり     吟
58   めくら腰ぬけ夢の世中       春
59 慮外者さはらばなどゝ肱を張      山
60   上様風の吹旅の空         才
61 御荷物に唐船一艘つくられたり     因
62   蜘てふ虫も糸のわけ口       春
63 鬢を撫て来べき宵也月の下       画  秋月恋
64   伽羅の油に露ぞこぼるゝ      也  秋恋
65 恋草の色は外郎気付にて        春  秋恋
66   はながみ袋形見なりけり      才  恋
67 さる間三年はこゝにさし枕       青  恋
68   親の細工をあらためずして     因
69 何物が人のかたちと成やらん      市
70   しばし楽屋の内ぞ床しき      山
71 来て見れば有し昔にかはら町      也
72   小石をひろひ塔となしけり     章
73 ない物ぞ真の舎利は求ても       画
74   誰かしつつる天竺の秋       春  秋
75 牢人を尋出たる空の月         因  秋月
76   霧にこもりし城の遠近       山  秋
77 花をる事附り堀の魚取事        章  春花
78   すり餌によする梅のうぐひす    市  春

79 やよ見たか祇園のあたりのはるの空   才  春
80   うしろ帯して塗笠編笠       春
81 屋敷者跡にたつたは年こばい      市
82   順の舞には小々姓が先       吟
83 常紋の袴のそばをかいどりて      春
84   雨にも風にもかよはふよなふ    因  恋
85 夢うつゝ女姿のちみどろに       山  恋
86   胸にたくのを別火とやいふ     也  恋
87 しゝくふた酬いを恋にしられたり    章  恋
88   たが参宮の伊勢ものがたり     市  恋
89 見たい事ぢゃ松坂こえてかけ踊     因  秋
90   遠く遊ばぬ盆の夕暮        春  秋
91 住つけば残る暑さも苦にならず     画  秋
92   月はこととふうら店の奥      山  秋月
93 秋の風棒にかけたる干菜売       青  秋
94   賤がこゝろも明樽にあり      因
95 綱手をもくり返しぬる網のうけ     山
96   あこぎが浦や牛のかけ声      市
97 みづらいふわっぱも清き渚にて     章
98   馴てもつかへたてまつる院     画
99 そも是は大師以来の法の華       春  春華
100  土の筆にも道や云らん       才  春

芭蕉全連句PDF版 by 生角さん  
芭蕉連句全註解 第一冊、島井清、桜楓社、昭和54年
西山宗因全集 第三巻 俳諧篇、尾形仂・島津忠夫監修、八木書店、2004年

2009年10月11日日曜日

わざごとうたのあげつらひ

俳諧歌論(わざごとうたのあげつらひ)   
    高田与清(たかだともきよ 1783-1847)

原文:
桃青といふえせものが漫(みだり)に正風といふ名をいひ出せしより、こよなう俳諧歌は廃れたり。まづ正風体といへるは、歌にもはやくよりいへりし事にてその真の体をいへる名也。然れば俳諧歌の正風とはをかしみあるをいふべきにこの法師が、

意訳:桃青(芭蕉)という偽者が考えの浅いまま正風という名を言い出してから、この上なく本来の俳諧歌(滑稽味を帯びた歌の一体)が廃れてしまった。正風体というのは和歌にも早くから(古今集:六体、定家:十体)定義されており、それらを指す言葉である。正風体の俳諧歌とは滑稽味のある歌であると言うべきなのにこの法師は、

原文:
 山路来て何やらゆかしすみれ草    夏草や兵士どもが夢の跡
 春雨や蜂の巣つたふ屋上の漏     旅烏古巣は梅に也にけり
 むざんやなかぶとの下の蛬      ものいへば唇寒し秋の風
 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也     道のべの木槿は馬に喰れけり
 おくられつおくりつはては木曽の秋  蝶のとぶばかり野中の日影かな

原文:
などいへるたぐひ(ここには泊船集、芭蕉句選などいへる中にてその難なきを挙たり。此外の発句どもおほかたは体をなさず。)みなさびしげなる手ぶりにて少しも俳調(わざことぶり)にかなはず。こは正風の字を心得ひがめて戯たることなきをいふとおもひしなるべし。

意訳:
などという類いの句を詠んでいる。(ここでは泊船集と芭蕉句選から難(きず)のないものを列挙した。この他の発句はほとんど体をなしていない。)どれも寂しい感じの風調でちっとも面白味と滑稽味がなく俳諧という正しい風体に叶っていない。これは正風という言葉を自己流の意味付けでゆがめて解釈し、戯れの要素がないことを正風の俳諧と言うようにしたにちがいない。

原文:
尾張国名古屋人士朗が枇杷園随筆に、許六が曰く、発句は正風体を宗とする也。見聞たる所を句につくる也。幽玄のさびしみ、ほそみへかけて人の感ずることをす也とあるにて、此徒(ともがら)のひが心得せし事しられたり。されど俳諧歌の上の正風は、俳調なるをいふべきにて然らぬ体は邪事(よこしまごと)になんありける。

意訳:名古屋の井上士朗(1742-1812)の『枇杷園随筆』の中に、「許六が曰く、発句は正風を旨とする。作為や想像でなく、見たり聞いたりしたことを発句に作れ。幽玄なさびしみやほそみを心掛けて人が感動するように詠めとある。これで桃青らの輩の正風と俳諧に対する間違った解釈と行いが明白にわかる。昔から俳諧歌の正しい風は、面白味滑稽味であり、そうでない風体は正しくないのだ。」

原文:
俳諧童子教にむかしの俳諧は俳諧を体とし、今の俳諧は風雅を体とす。故に芭蕉翁は俳諧に古人なしと密に申されけるぞといへり。これによりておもへばふるき正風にもよらずみだりにおのれが仕出したるえせ事をいひはらんとて、古人なしなどともいひけるにや。

意訳:嶋順水『俳諧童子教』に「むかしの俳諧は俳諧を体とし、今の俳諧は風雅を体とする。その故に芭蕉翁は俳諧に古人なしと密かに言われた。」と書いてある。これからすると昔からの正風、俳諧の解釈に依らないで自己流の間違った解釈を主張して、古人なしなどと言ったのだろうか。

原文:
されどこの作者が後に桃青が心におしあてて附会せしにや。動(と)もすれば桃青がかくいひおきたりとて、おのれが私事をいひ出し、古き道をもきたなき口つきもていひ消んとするは、俳徒(わざことびと)の常也。

意訳:しかし、芭蕉がそう言ったのではなく、嶋順水が芭蕉の心を汲み取って言ったのだろうか。芭蕉がそう言い残したとしても自分勝手な解釈を言い出して昔からの解釈をないがしろにしその伝統的なものを消滅しようするのは、こういう偽の輩の常である。

原文:
つらつらおもふにかかるたぐひの者世にはあまたありていかに道理をさとしてもおもひあきらめずいよいよ邪道(よこしまのみち)にかたまる輩(ともがら)いとおほし。邪宗の賊など国の害におよびしもこれがゆゑ也。ー略ー

意訳:よくよく考えるとこのような類いの偽者は世に沢山居り、どのように道理を尽くして説いてもその考えを捨てずますます邪道に入り込んでいく輩は大変多い。間違った宗教の信者の増加などで国に害が及ぼされるのも同じ理由である。

原文:
かかればこの法師が歌は俳諧の発句にもあらず、また俗語を雑(まじえ)て、雅言をつくさざれば真の片歌にてもなく。右に挙たる桃青が発句どもは真の片歌ともいひつべけれどなほ純粋の詞(てぶり)にあらず、いはんや俳諧体なる発句はたえてなかるをや。わづかに 菜畑に花見がほなる雀かな といへる一歌はその体を得たりといふべし。

意訳:従って、この法師、芭蕉らの歌(575)は正しい意味の俳諧(滑稽味)の発句でもなく、俗語を混じえ雅びでもないので真の片歌でもない。右に挙げた桃青の発句は真の片歌とも言えないことはないが、純粋な片歌の風調ではない。さらに正風の俳諧体の発句は絶えて存在しない。強いて言えば、菜畑に花見がほなる雀かな は滑稽味があり俳諧体となっているか。

原文:
名もなき漫歌(みだりうた)とこそいひつべけれ。此はむねと活計(よわたり)のわざをのみおもひかまへて、いかなる痴人にもたやすく詠出らるべき調(てぶり)をもて誘つつ、空しきからの名を売たりしもの也けり。

意訳:全体的に見れば、芭蕉らの歌は漫歌(みだりうた)とでも呼べようか。自派の隆盛と自分の生活の糧を得ることをまず考え、どんな阿呆でも簡単に歌を詠めるような風調で人々を派に誘い、空しい虚名を売ったと言える。

感想:
批判は一理あるか。芭蕉が昔からの解釈をネグって新しい解釈に置き換えていくのは、俳諧という言葉もそうだが、軽みという言葉もそうかもしれない。従来の面白おかしい俳諧は狂歌・狂句と呼び、これからは誠の俳諧だけを俳諧と呼びま〜す。従来の面白おかしい俳諧の軽みは、これからは重みと呼びま〜す。そして作為のない軽みだけを軽みと呼びま〜すとか(^^)

土芳『三冊子』のしろさうしの冒頭にも、芭蕉の俳諧は名はむかしの名にしてむかしの俳諧に非ず、誠の俳諧なりと、いけしゃぁしゃぁと悪びれず、宣言している。

若干芭蕉の弁護をすれば、連歌と俳諧の違いは、俳諧が俗言を使うだけで両者は同じだという認識が貞徳などにもあった。和歌・連歌人からすれば、雅で真面目な歌の合間に息抜きの余技で、俗言を使い面白味・滑稽味を加味して俳諧歌を楽しんだのだろう。芭蕉は俳諧で、宗祇が雅言をもって到達した正風連歌の境を目指した。俗言を使ってその境を目指した先人はいないということで俳諧に古人なしと言った。このとき俳諧に面白味と滑稽味が付随していてはその道は遠いというか到達不可能と思われた。よって俳諧から面白味と滑稽味を排除して、風雅の誠路線を正風俳諧という名を唱えて進んで行ったのだ、と思う。

参考文献:
江戸人物読本 松尾芭蕉、楠元六男編、ぺりかん社 1990年
俳優(わざをぎ)
 

2009年10月9日金曜日

ゆめゆめ学ぶまじき人の有様なり

『去年の枝折』上田秋成
(こぞのしをり)

原文:
二箇といふ里に日暮ぬ。我より先にやどる人有。修行者と見しかば、へだてのさうじ明やりて物がたりす。いづこへの修行ぞと問へば、身は雲水にまかせたれど、仏菩さつに後の世の事のみ打頼めるにあらず。風月にふかく心をそみて、我翁の跡おちこち尋ねあるくなるはと云。

意訳(いい加減な):二箇という里に来て日が暮れた。私より先に宿についた人が居た。修行者のように見えたので明るい障子越しに話をした。「どこへ修行に行かれるのですか。」と聞くと、「私は行脚僧ですが、仏や菩薩に自分の後の世を頼むためばかりではなく、風雅に心惹かれ我が翁が旅したゆかりの跡をあちこち訪ね歩いているものです。」と言う。

原文:
いとよし有げ也。翁とは何人のうへにて、かくまでしたはせ給ふらんと云。法師いと興なげにて、旅人も頭まろくおはすれば、風雅の道も心得たまひて、かく野山をば分させ給ふにとおもひしに、あからさまに我翁をしらぬよしに聞え給ふは、青き嚢をうながせて、日々に奔走する風塵の士にてやおはす。

意訳:とても事情がありそうなので、「翁とはどなたのことですか、そこまであなたを慕わせるお方とは」と聞いた。法師は大変興ざめの体で、「旅人であるあなたも頭を丸めているので、風雅の道を心得て、このように野山を分け入って旅をされていると思いましたが、まるで我が翁をご存知ないように聞こえますが、さしずめあなたは青い袋を持って日々奔走している乱世の侠客のみたいですね。」

原文:
我翁と云は、元禄のいにしへ人にて、故実を拾穂の門に学び、道を仏頂の言下に参禅し、杜律山家の骨肉に入て、柿園の枝葉の茂きをかり払ひ、檀林の根ざし広ごれるを剪つゝ、邪路をふさぎて、正風の一体を興立したまふ。其旨とするや鷲嶺の説法、聖王の礼楽をも態々学ぶまでもあらず、人生の常ある理りをただ十七字の中に会して、朗然たる事暁のほしにあへるが如し。

意訳:「我が翁とは、元禄時代の人で、古典を北村季吟(拾穂軒)に学び、仏道は仏頂禅師に参禅し、杜甫の律詩、西行の山家集を体得し、歌聖柿本人麿の末流の茂った枝葉を刈り払い、談林派俳諧が根を伸ばしはびこるのを切り、邪道を塞いで、正風を興されました。その教えは釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説いた法華経、古代中国の聖王が用いた礼楽をわざわざ学ぶ必要もないものです。人生の変わらない理わりをたった十七字の中に理解できそれは暁の星のように明瞭です。」

原文:
扨其楽しきは先心を常に太虚に遊ばしめて、深き山にいり、江に釣、花の林も雪の野路にも、足を疲らさず眼をいためず、縉紳諸侯のお前に交るかとすれば、吾妻の歌舞伎難波の不夜城にも心をやりつゝ、しかも徳を損せずして変化縦横はかるべからず。

意訳:「さて、その楽しい教えとは、先ず心を宇宙(森羅万象)に遊ばせ、深い山に入るかと思えば、河口で釣りをし、桜の林や雪の野道に、足を疲れさせず眼を痛めることなく行くことができる。威儀を正して官位が高く身分ある諸侯の御前に居るかと思えば、江戸の歌舞伎、大阪難波の不夜城にもいける、しかも人間としての徳を損なうことはなくその千変万化は計り知れない。」

原文:
況や君臣父子妻妾の情を、ただ一巻のうちに連綿と尽さざる事なし。京極黄門再び世に出たまふとも、我翁にはうなづかせ給ふべし。医師もいとまあらば時々学ばせ給へ、自愛の薬、鍼浴湯水剤の及ぶべからぬをと、口疾くもかしこく説きこえたり。

意訳:「さらに君臣、父子、妻妾の人情を一巻の内に連綿と言い尽くすことができる。藤原定家が再び世に現れたとしても、我が翁は定家を納得させるであろう。医者も暇があれば時々学んでほしい。この自愛の薬には、鍼や温泉、飲み薬は及ばない。」と早口に熱弁した。

原文:
思ひがけず珍らかに承侍りて、いとまあらば学び侍らんと言すくなにあへしらふに、猶すずろぎて、学ばんとおぼさば、便につけて難波の御許に立よるべくいふ。いとかたじけなきよしにて、あらぬ名どころ書付さす。

意訳:「思いがけなく貴重なお話をうかがいました、暇ができたら学んでみます。」と言葉少なくあしらったら、なおもそわそわした感じで「学びたいとお考えなら、手紙を下さい。難波のあなたのお住まいに立ち寄りましょう。」と言う。それはありがたいという風を装いながらでたらめの住所氏名を書いて教えた。

原文:
寔やかの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住なして、西行・宗祇の昔をとなへ、檜木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ぬ。

意訳:たしかに彼の翁という者は、琵琶湖ほとりの幻住庵、深川の芭蕉庵と一所と定めずに庵住し、西行や宗祇の昔を追慕して、檜笠に竹の杖で世の中を浮かれ歩いた人と言うが理解できない。

原文:
彼古しへの人々は、保元・寿永のみだれ打つづきて、宝祚も今やいづ方に奪ひもて行らんと思へば、そこと定めて住つかぬもことわり感ぜらるゝ也。今ひとりも嘉吉・応仁に世に生れあひて、月日も地におち、山川も劫灰とや尽ずなんとおもひまどはんには、何このやどりなるべき、さらに時雨のと観念すべき時世なりけり。

意訳:西行の時代は保元・寿永の乱が続き天皇の位も今や何処に奪われて行ったかという乱世であり、そこと定めて一カ所に住み着かない理由も理解できる。もう一人の宗祇の時代も嘉吉・応仁の乱の乱世であり、民衆の日々の生活は地に落ち、山川も大きな災難の名残りをとどめており、どこに住もうか思い迷うのは理解できる。世にふるもさらに時雨の宿りかな(宗祇)と観念すべき時世であった。

原文:
八洲の外行浪も風吹たゝず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、何くか定めて住つくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触て狂ひあるゝなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。

意訳:日本の外の浪風は日本には吹き立たない。乱世ではない日本において、士農工商のすべての国民はそれぞれの仕事を身につけて、どこか一カ所に住み着くべきである。それなのに、僧侶とも一般人とも言えない人が、安住ぜずに前述のようなことを言い触らして日本を狂い歩くとは、まことに君主堯の故事(堯が変装して民が政治に満足してるか視察に出掛けたら老百姓が君主を讃える歌を腹をたたきながら歌っていた)と似ていないこともないが、決して人間として真似したり学ぶべきありようではないと思う。

感想:
共感。芭蕉は先人をまねて、ふり(作為)をしたのだ改めて思う。作句で作為をしてはいけないと言ったことと矛盾しないか。

    吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ  西行

参考文献:
江戸人物読本 松尾芭蕉、楠元六男編、ぺりかん社 1990年
上田無腸
西鶴、芭蕉、そして秋成のこと
      
      

2009年10月7日水曜日

軽みの野坡

   猫の戀初手から鳴て哀也    野坡  (炭俵)

芭蕉の晩年に現れて軽みの第一人者と後世に言われる志太野坡(しだやば)であるが、いろいろ句をながめてもどこが?と思うのは私だけだろうか。芭蕉や去来、許六が当時そう言ったからそうなのかしら。近年、奥の細道の野坡本が出て芭蕉の自筆草稿本と認定されたようであるが芭蕉の信任のほどがうかがえる。しかし、もう少し芭蕉が長らえていたらどうだったろうか。別の新風が出てそれについていけなければやはり使い捨てにされただろうか。上の句からふと新風の軽みについていけず使い捨てにされた越智越人(おちえつじん)の猫の戀の句が浮かんだ。

   うらやまし思ひきる時猫の戀  越人  (猿蓑)

2009年10月5日月曜日

芭蕉の軽み(感想的私論)

芭蕉の軽み(問題提起)
芭蕉の軽み(情報収集)

芭蕉の軽み(感想的私論)

 去来は、重い情を重い言葉で詠めば重み(重くれ)となりよくない、重い情は軽い平明な言葉で詠めと言っているか。これは昔から現代まで俳句や他の文芸・芸能でも言われていることのようでわかりやすい。

 許六の理解する軽みは、一見逆説的で難解だが赤羽氏はこれが芭蕉の言わんとしたところに一番近いのではないかという。「かるきといふは、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。言葉の容易なる趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て一句の上に自然ある事をいふ也。」「面白く俗のよろこぶ所のしみつきたるごとき事を、おもきといふ也。かるきと云ふは言葉にも筆にものべがたき所にえもいはれぬ面白き所あるをかるしとはいふ也。」 しかしこれを一般に理解させるには骨が折れそうな論ではある。
 
 芭蕉の軽みを高悟帰俗と軌を一にする通俗性の強調とする潁原退蔵氏の単純明快な見解に賛成する。この立場から炭俵のむめがゝにの巻を見ると、たしかに通俗的な情や言葉がほぼ途切れなく盛り込まれている。いくつか面白い句は散見されるが、こういう俳諧を芭蕉は本当に至上としたのかという疑問が湧き上がってくる。

 芭蕉はなぜ晩年になって軽みを提唱したのだろうか。芭蕉は風雅の誠をダイレクトに求めてまじめな重み路線とも言える、わび、さび、しをり、ほそみなど枯淡閑寂な理念を打ち出し突っ走ってきた。芭蕉は新風の提唱を続けないと自分の存在価値がなくなるという強迫観念にとらわれていたのか次の新風を探った。芭蕉は元談林の俳諧師だった。そのころの師宗因の軽みや自分たちがやっていた俳諧の軽みや面白みをふと振り返ったのか。「悪党芭蕉」で嵐山氏は、芭蕉は当時大人気になっていた作為による軽み(許六はこれを重みと呼ぶ)とも言える其角の洒落風俳諧に、不作為の軽みで対抗しようとしたのだと述べている。

 江戸の其角や嵐雪などの門人は芭蕉の軽みを屁とも思っていなかった。不作為と言っても結局、通俗性の強調に過ぎない軽みは新風でもなんでもなくそんなことは自分たちがずっとやってきた風潮の一つあるいは下地にすぎない。師芭蕉だけがまじめ路線で突っ走り重みの隘路にはまり、そこから脱却するため軽みをひとりで叫んでいるだけではないのかと。

 芭蕉の軽みの提唱は、芭蕉没後の蕉風俳諧の堕落を促進した。軽みは風雅の誠があってこそ本来の効果を発揮する。芭蕉がいなくなって蕉門各派とも風雅の誠が薄れた。風雅の誠がなくなった軽みは必然的に軽口、軽薄、卑俗へと堕ちていき正風俳諧は消えてしまった。

芭蕉の軽み(情報収集)

芭蕉の軽み(問題提起)

芭蕉の軽み(情報収集)
■芭蕉が軽みについて言及している俳書・書簡
(1)別座鋪 子珊
 「麻の生平のひとへに衣打かけ身がるく成行程、翁ちかく旅行思ひ立給へば、別屋に伴ひ、春は帰庵の事を打なげき、扨誹諧を尋けるに、翁今思ふ體は、浅き砂川をみるごとく句の形付心ともにかろき也。其所に至りて意味ありと侍る。」

(2)旅寝論 去来
 「野坡別に臨んで来る春の歳旦はいかに仕侍らんと尋申けるに、猶今の風然るべし。五六年も経なば一変していよいよ風体軽く移り行んと教へ給ひけるとなん。」 

(3)赤冊子 土芳
 「   木のもとは汁も膾もさくら哉 芭蕉
 この句の時、師のいはく。花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。」 

(4)不玉宛芭蕉書簡
 「心情専らに用る故に、句体重々し」

■門人が軽みついて言及している俳書・書簡
(1)不玉宛去来論書
 「来書曰く、情・辞にも軽重あり(不玉)。去来曰く、此の論勿論也。情・辞共に其の重くれたるを嫌ふ。情の厚深なるを嫌ふに非ず。」「今謂る重きは厳重の謂に非ず。たとへば俗に云ふ重くれたると重々しきとの如し。其の重くれたるを嫌ふ。」

(2)俳諧問答 俳諧自賛之論 許六
 「かるきといふは、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。言葉の容易なる趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て一句の上に自然ある事をいふ也。」

 「面白く俗のよろこぶ所のしみつきたるごとき事を、おもきといふ也。かるきと云ふは言葉にも筆にものべがたき所にえもいはれぬ面白き所あるをかるしとはいふ也。」

(3)宇陀法師 許六
 「あら野・ひさご・猿蓑・炭俵・後猿と段々その風体あらたまり来たるに似たれど、あら野の時はや炭俵・後猿のかるみは急度顕はれたり。」
     かれ朶に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉 (曠野)

(4)麋塒宛杉風書簡
 「一辺見ては只かるく埒もなく不断の言葉にて古き様に見え申べし。五辺見候はば、句は軽くても意味深き所見え申べし。」

■軽みの敷衍ままならずー軽みの野坡
(1)芭蕉俳諧の精神 軽み 赤羽学
 「元禄五年以後、芭蕉は急速に軽みの方向に傾いた。けれどの俳壇は、必ずしも芭蕉の真意を理解するまでに至らなかった。元禄五年五月七日付去来宛書簡で芭蕉は、

  『予が手筋此の如しなど顕し候はば、尤も荷担の者少々一統致すべし、然らば却って門人共の害にもなり、沙汰も如何に了簡致し候へば、余所に目をつむり居り申し候。』

 と述べた。つまり、芭蕉が自分の手筋を披露すれば、一部の者はそれに荷担し一つに統べることはできようが、それに賛成しない門人の統一を乱すことになりかねないので、暫く目をつむるという意である。かくして芭蕉は、江戸の俳壇に対して不満の情を覚えながらも自分の方針の理解される日を忍耐強く待った。」

(2)許六宛芭蕉書簡 元禄七年二月二十五日
 「野坡、去秋愚風(注:軽み)に移り、いまだうひうひ敷くてさぐり足にかかり侍れど年来の功(注:炭俵編纂)少増り、器量邪風に立ち越し候故、見所多く候。」

(3)旅寝論 去来
 「我、蕉門に年ひさしきゆゑに虚名高しといへ共、句においてその静なる事丈草に及ばず、そのはなやかなること其角に及ばず、軽き事野坡に及ばず、化なる事土芳に及ばず、巧なる事正秀に及びがたし。」

(4)俳諧問答 同門評判 許六
 「野坡・利牛・孤屋。その中に野坡すぐれたり。旧染のけがれを炭俵にあらため、流行の軽き一筋を得たり。」

■軽みを具現した代表作と言われる炭俵の『むめがゝに』の巻

 むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉
   処/\に雉子の啼たつ      野坡
 家普請を春のてすきにとり付て    同
   上のたよりにあがる米の直    芭蕉
 宵の内はら/\とせし月の雲     同
   薮越はなすあきのさびしき    野坡
 御頭へ菊もらはるゝめいわくさ    野坡
   娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉
 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡
   ことしは雨のふらぬ六月     芭蕉
 預けたるみそとりにやる向河岸    野坡
   ひたといひ出すお袋の事     芭蕉
 終宵尼の持病を押へける       野坡
   こんにやくばかりのこる名月   芭蕉
 はつ雁に乗懸下地敷て見る      野坡
   露を相手に居合ひとぬき     芭蕉
 町衆のつらりと酔て花の陰      野坡
   門で押るゝ壬生の念仏      芭蕉
 東風々に糞のいきれを吹まはし    同
   たゞ居るまゝに肱わづらふ    野坡
 江戸の左右むかひの亭主登られて   芭蕉
   こちにもいれどから臼をかす   野坡
 方/\に十夜の内のかねの音     芭蕉
   桐の木高く月さゆる也      野坡
 門しめてだまつてねたる面白さ    芭蕉
   ひらふた金で表がへする     野坡
 はつ午に女房のおやこ振舞て     芭蕉
   又このはるも済ぬ牢人      野坡
 法印の湯治を送る花ざかり      芭蕉
   なは手を下りて青麦の出来    野坡
 どの家も東の方に窓をあけ      野坡
   魚に喰あくはまの雑水      芭蕉
 千どり啼一夜/\に寒うなり     野坡
   未進の高のはてぬ算用      芭蕉
 隣へも知らせず嫁をつれて来て    野坡
   屏風の陰にみゆるくはし盆    芭蕉

■研究者の考える芭蕉の軽み
(1)俳諧精神の探求 軽みの真義 潁原退蔵 
 「芭蕉が高く心を悟りて俗に帰るべしの精神を身をもって説いたのが軽みであり、不易流行説における通俗性の強調に他ならない。」
 
付録:
■重い事柄を重い言葉でそのまま表現した芭蕉句の例
 
 発句
  野ざらしを心に風のしむ身哉  
  猿を聞く捨子に秋の風いかに

 付句
   きえぬそとばにすごすごとなく  荷兮
  影法のあかつきさむく火を焼て   芭蕉 (冬の日 木がらしの巻)

   捨てられてくねるか鴛の離れ鳥  羽笠
  火おかぬ火燵なき人を見む     芭蕉 (冬の日 炭売の巻)

   籠輿ゆるす木瓜の山あひ     野水
  骨を見てそぞろに泪ぐみうちかへり 芭蕉 (冬の日 霜月の巻)

■参考文献
(1)芭蕉俳諧の精神、赤羽学、清水弘文堂、昭和59年
(2)俳書大系 蕉門俳話俳文集 上下巻、神田豊穂、春秋社、昭和4年  
(3)日本名著全集 江戸文芸之部第三巻 芭蕉全集、日本名著全集刊行会、昭和4年
(4)許六・去来 俳諧問答、横沢三郎校注、岩波書店、1996年 
(5)校本芭蕉全集 第五巻 連句篇下、島井清ほか、角川書店、昭和43年


つづく。
芭蕉の軽み(感想的私論)