2010年2月28日日曜日

孤高の人(二)


2007年06月01日21:00

冬/春/単独行

   八ヶ岳
      一月二日 曇 温泉出発九・三〇 二五〇〇メート
      ルくらいの地点一一・五〇 温泉帰着一・〇〇
 
  今日もやはり天気が悪い。雪はあまり降ってはいないが風が
 なかなか強い。また峠へ行って硫黄岳の偃松帯まで登る。岳は
 霧や風と戦いの真最中で凄い音をたてている。一人では登る気
 にならない。トボトボ温泉へ引返す。

  近所にスキーを練習するような所はなし、しようがない。火
 を焚いてみようと思って温泉の前に積んであった薪を小さく割
 って積み重ね、紙を燃して一生懸命に吹いてみたが、ちよっと
 燃えるだけですぐ消えて黒くなってしまう。

  ローソクも相当燃してみたが火力が弱いのか、やはり駄目で
 あった。これまでの夏期の登山では雨が降ろうが、風が吹こう
 が、一日だって同じところに停まったことがなかったので、元
 日は今日も吹雪がつづくのではなかろうかと思って、一番心細
 かった。

  しかしこの日は、冬山は夏のようにはゆかないということが
 わかり、だいぶ落着いてきた。戸棚に宿泊人名簿とキングの古
 雑誌があったので、それを読んだりした。

     一月三日 快晴 温泉出発三・〇〇 夏沢峠五・〇〇 
     本沢温泉六・〇〇 夏沢峠八・〇〇 硫黄岳九・〇〇 
     横岳一〇・二〇 赤岳一一・一〇 夏沢峠一・四〇 
     夏沢温泉三・〇〇 上槻ノ木六・三〇
 
  夜中から星が光っている。八ヶ岳の頂きに立つ日がやってき
 たのではなかろうか、そう思うと何度も目が覚めてよく寝られ
 ない。早すぎると思ったが思い切って出発し、ランタンをたよ
 りに峠へ急ぐ。

  峠ではまだ暗く風が強いので、シールをつけたまま本沢温泉
 へ下ってみる。番人がいたら御馳走をしてもらうつもりだった
 が、あいにく留守でがっかりした。峠からこの温泉までは森林
 帯でさほど危険でないが、スノウ・ボールが落ちるほど急なと
 ころが多く西側とは段違いだから、スキーのうまくない人はシ
 ールをつけて下ってもさほど時間は変らないと思う。しかし温
 泉附近はとてもいいスロープがある。

  硫黄岳から天狗岳への山稜がモルゲン・ロートに燃えだして
 素敵だ。急いで峠に引返し硫黄岳へ登る。相当上までスキーは
 使えるが、風が強いので昨日登ったところでスキーをアイゼン
 に変え、偃松帯へ入ってちょっと泳ぐともう雪は堅くなってい
 る、アイゼンで気持よく歩ける。

  風はとても強いが、天気がいいので安心して登る。硫黄岳の
 頂きで初めて見た冬山の大観。それは僕には一生忘れることの
 できない一大驚異であった。

  頂きはとても寒いので長く立ってはいられぬ。急いで横岳へ
 向う。硫黄岳と横岳の鞍部では風のため二、三度投げ出された。
 顔と手の寒いことよ。スキー帽の上に目出し頭巾を冠り、その
 上を首巻でグルグル巻いているのに、風の強く吹いてきたとき
 は痛いと思うほど寒い。顔と手は皮の物を使わなければ駄目ら
 しい。

  横岳へ取付いてすぐ二カ所岩にかじりつくところがある。し
 かしどっちも低いし、落ちても安全なところである。横岳は殆
 んど東側ばかりを歩いた。さほど悪いと思われるところはない。

  横岳の下りで、新雪の急斜面を横切るとき、ミシッと言って
 大きな割目ができたので、ヒャッとして夢中で元の方へ這い上
 った。ここは今ちょうど太陽が直射していて深く潜るところで
 あった。そこでこんどはズッと上の方を偃松や岩角を掘り出し、
 これを手掛りとして通った。

  この辺から見た赤岳はとても雄大である。鞍部にある赤岳の
 小屋は戸口に雪がつまっていて入れそうにない。風は止んでズ
 ッとあたたかくなってきた。そして午前十一時十分憧れの頂き
 に立った。

  三年前の九月一日に権現岳からここへやってきたとき、一月
 などにこの頂きに立てようとは夢にも思わなかったが、何と幸
 運なことだろう。昨日までの苦心はこれで完全に報いられた。

  さあベルグハイルを三唱しよう、歌も唄おう、四囲の山をも
 う一度ゆっくり眺めよう。そうして北の山を眺めていると、乗
 鞍へ向った先輩のことが頭に浮んでくる。今あたり乗鞍の頂き
 に立って、エホーと声をかけているのではなかろうか、何だか
 そんな気がする。

  早く会って乗鞍の話を聞こう、また八ヶ岳のよかったことを
 話そう。帰りに横岳の西側を歩いてみた。雪の着き方が少ない
 ので楽だが、悪場のため、長くは歩けなかった。

  横岳を過ぎ硫黄岳へ登って、赤岳へ名残りを惜しむ、天気は
 依然として変らない。スキーを履いてから峠まで、ちょっとの
 あいだに何度も転ぶ。

  夏沢温泉へ帰って、すぐ荷物をまとめ、山を下る。アーベン
 ト・グリューエンに燃えた八ヶ岳の連峰が、いつまでも見送っ
 てくれていた。




(あとで、青空文庫に『単独行』の全文が載っているのに気が
 付いた。)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000245/card1330.html

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