2012年10月2日火曜日

連句は曲解の文学、か?

連歌辞典:
【取りなし】
付け方の一体。前句の言葉や意味を、もとの意味と違ったものに取りなして転じる手法をいう。二条良基『撃蒙抄』にも見える同音異義(「恨み」を「浦見」など)に転換する詞の取りなしと、前句の場面や動作主体を転化する心の取りなしとがある。宗牧『当世連歌秘事』によれば、宗砌はこれも大事であるとしたが、宗祇は『長六文』で好ましくない例を挙げて批判した。宗長『連歌比況集』では前句のもとの内容を無視することのないように注意すべきと説く。

連句辞典:
【見立て替え】
打越の句に対して付けられた前句の趣向を、付句を付けるときに別の意味に解釈すること。主に談林俳諧で用いられた手法で、一句一句の独立性や三句の渡りを重んじる蕉風連句では、前句の解釈可能な範囲内で行われ、奇抜で極端な曲解をしたり、好んで用いるということはされない。
一例を蕉風連句から挙げると、

      蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
    のり物に簾透顔おぼろなる    重五
      いまぞ恨の矢をはなつ声   荷兮 
                『冬の日』「狂句こがらし」の巻

では、蝶はむぐらにから優美な貴人をもって前句が付けられているのに、付句はその人物を戦国時代の憎々しい面構えの男と見立て替えして付けたものである。劇的な事件への急転であるが、前句自体の解釈は許容範囲内にある。

感想:
連句は曲解の文学と言った人がいるようだが、曲解(=取りなし=見立て替え)は、付けおよび転じの一手法であり一面はとらえているが言い過ぎである。またその説を批判した人は蕉風俳諧に曲解は皆無であると言っているがそれも言い過ぎであろう。

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